矢沢永吉 プロフィール

矢沢永吉 プロフィール

矢沢永吉 属性プロフィール

矢沢永吉

矢沢永吉 プロフィール概要

矢沢 永吉(やざわ えいきち、1949年9月14日 - )は広島県広島市出身のロックミュージシャン。血液型はB型。愛称は「永ちゃん」「ボス」。ロゴマークはE.YAZAWA。ほぼ全曲に亘る作曲、及び数曲における作詞を手掛ける。他のアーティストに五大洋光名義で楽曲を提供したこともある(クールス「紫のハイウェイ」等)。俳優として映画やドラマの主役を務めたこともあり、CM出演も多数にのぼるが、デビュー以後、特にテレビ媒体に露出することを極端に嫌い、ザ・ベストテンなどの歌番組にノミネートされても、殆ど出演しなかった時期が長かった。また、プロデューサーとして自身の多くのアルバムを手がけてきた。コンサートの興行や演出なども自身の会社が行い、自らがそれら全てを取り仕切る。日本ではかねてより現役としての50代のロック歌手は存在せず、その点において矢沢が初めてのアーティストとなった。2008年現在、楽曲数300曲・ライブ総数1500本・総動員数550万人を超える。オリコンアルバムランキングベスト10入り最多記録(46作)と日本武道館最多公演記録(102回)を更新中である。妻は米国人とのクォーターで、1女2男の父親でもある。また、長女のyoko(ヨーコ、本名・矢沢洋子)は歌手であり、男性ミュージシャン2人と共に3人組のユニット「the generous」(ザ・ジェネラス)を結成。エイベックスと契約を結んで2008年10月29日にアルバムを出し、デビューする予定である[1]。

矢沢永吉 プロフィール詳細

経歴
キャロル結成まで実母が家を出て、実父は原爆後遺症で早逝したため、幼少期は親戚中をたらい回しにされる。その後は祖母に育てられ、極貧の少年時代を過ごした。中学時代、ラジオから流れるビートルズを聴いてロックミュージックに目覚め、1968年、高校卒業と同時に、トランクとギターとアルバイトで貯めた5万円を持って、広島より最終の夜行列車で上京する。横須賀駅で途中下車(ビートルズが港町の出身で、本当は横浜が同じ港町ということで横浜で途中下車したかったが、長い時間電車に乗り続けたので、お尻が痛くなり横浜まで行き着けなかった、と本人はラジオで語っている)。チャイナタウンなどで働きながらバンド活動を始める。横浜、横須賀、川崎などのライブハウスやキャバレー、兵隊の集まるゴーゴークラブで歌う。自作の曲『アイ・ラブ・ユー、OK』のテープをレコード会社(東芝EMI、現・EMIミュージック・ジャパン)に持ち込んだが、売れないと社員に酷評される。東芝EMIを選んだ理由は、「ビートルズのレコードを出しているから」。「ザ・ベース」「イーセット」等バンドを経て、「ヤマト」結成。「ヤマト」には、後に矢沢ファミリーと呼ばれるNOBODYの木原敏雄(ギター)、大森正治(ドラム)がメンバーに名を連ねていた(なお、もう一人のNOBODYである相沢行夫もこの頃に知り合う)。矢沢本人はこの「ヤマト」で芸能界デビューを望んでいたものの、様々な事情により「ヤマト」は解散。その後矢沢が張り紙チラシで募集をかけ、1972年にジョニー大倉内海利勝・ユウ岡崎(この頃は別のドラム担当でユウ岡崎氏はデビュー後に参加)らとロックバンドキャロルを結成。ボーカルおよびベースギターを担当。キャロルはデビュー時、芸能界のネットワークを活かし、内田裕也のレーベルとミッキー・カーチスのレーベルの二者から誘いを受けたが、キャロルは内田に詫び、ミッキーを選んだ。しかしこの際、金銭的にキャロル側に著しく不利な契約を長期で結んでしまったため、後にキャロルはミッキーとも袂を分かつことになる。ミッキー・カーチスのプロデュースにより日本フォノグラム (フィリップス・レーベル、現在のユニバーサルミュージック) からシングル『ルイジアンナ』でデビュー(フジテレビ「リブ・ヤング!」)。革ジャンにリーゼント、ロックン・ロールというスタイルでいわゆる芸能界以外から登場し、当時のフォークソング一辺倒だった音楽シーンに進出した。1974年3月には、パリで行われた山本寛斎のショーにキャロルが出演し、『ルイジアンナ』『ヘイ・タクシー』『憎いあの娘』を演奏している。 キャロル解散・ソロ活動へ解散に至るまでの様々な葛藤は後述の矢沢の自著に詳しい。キャロルの活動は2年余りで終わりを迎えることになり、所属会社の要請で解散ライブを行うこととなった。このライブは1975年4月13日日比谷野外音楽堂において行われた。このコンサートには親衛隊としてクールスのメンバーが参加している。演出の為使用した爆竹が舞台セットに燃え移りステージが炎上するというアクシデントの中、キャロルは解散した(この事件により、メンバーは楽器を失うだけではなく、かなりの借金を抱えることとなる)。キャロルの解散が決定的になった頃、矢沢はソロ活動を行う際に前レーベルとの間に起こり得る問題を未然に防ぐため、単身CBSソニーに行き幹部と面会し、自らのソロ活動を担保とした金銭面・ビジネス面の話をまとめている。矢沢との面会後、CBSソニーは多大な金額をキャッシュで前レーベルに払い、すぐに同社のプロジェクトチームが動き始めた。この時、同社が金銭的な部分を含めて助力を惜しまなかったことが、後の矢沢との信頼関係や、あるいは矢沢のキャリア形成に繋がった。キャロル解散後は、事前準備が実を結び、満を持してソロでの活動を始める。同時に、矢沢はキャロル関係の人間から離れ、一切のスタッフを総入れ替えした。CBSソニーに移籍後、同年ロサンゼルスレコーディングによる『I LOVE YOU, OK』でソロデビュー。以降日の出の勢いで快進撃を続け、2年後の1977年には会場貸出拒否、ファンの暴走、世論等数々の難題を克服して日本のロック・ソロアーティストとしては初の武道館単独公演、初の長者番付歌手部門第1位を獲得、翌1978年にはCMソング『時間よ止まれ』が大ヒットする。元来、矢沢を愛するファンは、いわゆる不良、無頼者の印象の強い人間が多く、ライブ会場などもそうしたファンによる乱闘騒ぎも懸念されやすいため(もちろんそれは矢沢に責任はない)、厳戒体制の元、空前の後楽園球場単独公演、自伝の出版(成りあがり)やドキュメンタリー映画『RUN&RUN』公開と日本のロック界においてその地位を確立する(ただし、前述の借金問題はかなり尾を引いていたようだ)。 ソロ・黄金期1980年代に入ると矢沢は黄金期を迎え、売り上げ・動員数共にロックスターとしての地位を磐石にする。70年代後半長者番付歌手部門第1位の常連となり、スーパースターとして日本ロック界の頂点を極めた矢沢は、「世界のYAZAWA」と自らを謳って次なる目標を世界制覇に定める。1980年にワーナーパイオニアに移籍。海外市場に活路を求めアメリカ西海岸に活動の拠点を移し、現地のプロデューサーやドゥービー・ブラザーズなどのミュージシャンを起用したアルバムを何作か世界・全米で発売する。また、このころより、積極的に交友を広げ、自身が有能と判断した人物に関しては、しがらみなどを気にせず、躊躇なく関わりを持つようになる。例えば、古くからの友人であった大野真澄はフォークミュージックを歌う人間であったし、ソロになった当初より大野と共に相談相手となっていた吉田拓郎も同じである。以降もフォークミュージック界の人間であった西岡恭蔵を作詞に起用したり、また歌謡曲の分野で活躍していた大津あきらや山川啓介を作詞に起用したりしている。近年でもブリティシュなモッドスタイルのバンド、ザ・コレクターズの加藤ひさしに作詞を依頼したり、ヘヴィメタルバンド、BOW WOWのギタリスト、山本恭司をツアーのギタリストに起用したりと、その姿勢は変わることがない。1980年米国ワーナーブラザーズに移籍。1981年単身渡米し、エレクトラアサイラム・レコードと契約。9月25日、全曲英語詞アルバム『YAZAWA』全世界発売。全米での売上げ枚数は約2,000枚だった。以後主なる活動拠点をロサンゼルスに定める。1982年2月10日 アルバム『YAZAWA It's Just Rock'n Roll 」全米発売。シングル『ROCKIN' MY HEART』がジョージ・ハリスン・バリー・マニロウと共にビルボードに推薦曲として掲載される。ドゥービー・ブラザーズのメンバーと共にE.YAZAWA として“来日”し、凱旋武道館ライブを果たす。1987年アルバム『FLASH IN JAPAN』全米発売。全米での売上げ枚数5万枚。MTVスタッフによるPV製作。後に自伝で「FLASH IN JAPAN」の印税が800万円だったと回顧。日・米・伊合作映画グッバイ・ヒーローの音楽を担当。サントラが発売される。1988年アルバム『共犯者』ロンドンレコーディング。東芝EMIに移籍。日本国内を重視した活動になる。 ワーナーブラザーズへの移籍について上記のワーナーブラザーズへの移籍であるが、その実態は日本のワーナーパイオニア(当時)との契約であり、エレクトラアサイラム・レコードは単なる配給だけを行うだけの契約であった。この事からアメリカでのプロモーションは不十分な物であり、惨憺たる結果となった。また『FLASH IN JAPAN』はワーナーブラザーズが全面バックアップを行ったものの、同様の結果に終わってしまった。この一件により、矢沢はワーナーへの不信感をつのらせ、同時期、石坂敬一の誘いもあって東芝EMIに移籍する事となる。 その後の音楽活動・世界での音楽活動1995年ベストアルバム『BIG BEAT』香港発売。1997年ウェンブリー・スタジアム(英国ロンドン)で、エルヴィス・プレスリー没後20年を記念して行われたロックフェスティバル「songs and visions」にアジア代表として選ばれ、ロッド・スチュワート、ジョン・ボン・ジョヴィ、ロバート・パーマー、チャカ・カーン等と競演。世界60ヶ国に放映されるが、ロッドから最初「矢沢? 知らないね」とコメントされる。しかしゲスト紹介とともに現れたYAZAWAのパフォーマンスを8万人の観衆は快く受け入れ、ロッド自身もエンディングでYAZAWAをステージ中央に呼ぶなどし、最後には楽屋裏で「君、うまいね。エルヴィスのナンバー最高だったよ。今度いっしょにツアーやろうぜ!」とまで言わしめた。この模様をNHKがドキュメント番組Do You Know YAZAWA?として制作、放送した。オーストリア首都の音楽の都ウィーンにてゲリラライブ敢行。1999年9月15日、横浜国際総合競技場にて50歳バースデーライブ「TONIGHT THE NIGHT! ありがとうが爆発する夜」開催。10月、世界最大のヨットレース「アメリカズカップ」のテーマソング(「ヘブンリー・クルーズ」)を担当。アメリカツアー敢行(ホノルル、ロサンゼルス、サンフランシスコ)。2000年ナラダ・マイケルウォールデンプロデュースのチャリティ・クリスマスアルバム『music of love~for tomorrow's children~』にスティーヴィー・ワンダー、スティング、エンヤ等と参加。前年同様アメリカツアーを行う(サンフランシスコ、ロサンゼルス、ニューヨーク)。2001年FMフェスティバル'01テーマソング『この道の向こうに』を担当。2002年初のアコースティックコンサートツアー「VOICE」、デビュー30周年記念イベント「THE DAY」、ロックコンサートツアー「ONE MAN」を敢行。2003年ディズニーアニメ『ピノキオ』の主題歌『星に願いを』を担当し、東京ディズニーシーにてゲリラライブを行う。ディズニー社より表彰を受ける。2004年横浜国際総合競技場と大阪ドームで行われたロック・オデッセイに、エアロスミス、ザ・フー、ブラック・アイド・ピーズ、レニー・クラヴィッツ、レッド・ホット・チリ・ペッパーズと共に参加。大トリを務める。2005年ソロデビュー30周年を迎え、原点回帰すべく毎年恒例の武道館公演を封印し、ライブハウスのみでツアーを行う。2006年8月6日、ROCK IN JAPAN FESTIVAL出演。あまり矢沢を知らない世代にロックの原点を伝える素晴らしいライブとなった。10月20日より武道館5回公演を含む全34公演の全国コンサートツアー(NEW STANDARD ~Rock Opera 2~)敢行。12月2日、ブルーノート東京にてライヴ。2007年8月18日、RISING SUN ROCK FESTIVAL出演。10月12日よりEIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR 2007 THE REALをスタート。12月16日には、前人未到の日本武道館100回公演を達成した。当日の公演は最初の武道館公演と同じ服装で登場した。郵便局会社民営化企画協力第一弾として、日本武道館公演100回記念「You Say YAZAWA矢沢永吉 フレーム切手」販売。後楽園球場をはじめ、ナゴヤ球場、横浜スタジアム、東京ドーム、札幌真駒内オープンスタジアム、福岡海の中道海浜公園、阪急西宮スタジアム、福岡ドーム、横浜国際総合競技場、東京スタジアム、ウェンブリー・スタジアム(ロンドン)、大阪ドーム等の大規模会場公演もある。 様々な事件・騒動山中湖の自宅を取り壊す。山中湖に建てた自宅が無断でアサヒ芸能に取り上げられ、ご丁寧に地図まで掲載。その後熱狂的なファンが連日連夜訪れ大騒ぎとなる。このため妻はノイローゼで入院一歩前、子供たちは登校拒否になり、仕方なく引越し後空き家となった住居に一部のファンが侵入し、スプレーで落書きや板を剥がしての焚き火、無造作に残された女性下着など、エスカレートした為、自宅を取り壊す事となる。成りあがりでは、週刊 平凡 と記載されている。マネージャーによるコンサート売り上げ詐欺事件。そっくりさんによる3億円CM裁判。最終的に「肖像権を大切にしましょう」という共同提言を新聞に掲載した。オーストラリアにおける事務所元側近による巨額横領事件。土地取引を巡り、34億円という巨額の経済事件となった。これはオーストラリア犯罪史上2番目の被害額である。サントリー「BOSS」CM自粛。サントリー「BOSS」CM中の台詞「夏だからってどこか行こうってのやめましょうよ…何処行ったって夏なんですから…」に、長野県の旅館経営者が抗議。このCMは自粛となったが、次回のCMでは台詞が「冗談じゃねえよ」となった。桑田佳祐による「すべての歌に懺悔しな!!」騒動。1994年に桑田が発表した楽曲「すべての歌に懺悔しな!!」の歌詞を巡り、マスコミによって長渕剛と共に桑田に揶揄された当事者とされた。この際、激怒した長渕とは対照的に「お互いクリエイター。全然、気にしていないよ。それより桑田君の方は大丈夫か?」と逆に桑田を気遣った。提訴を起こす2008年、そっくりさんの物まねタレントが「矢沢永吉が唯一認めた」というコピーを公式ホームページに記載。矢沢側は提訴を起こすが、タレント側は逆提訴を起こした。この問題はいまだ解決していない。上述のような様々な逆境に見舞われるものの、CMやTVドラマに数多く出演。また主演映画公開など新分野に挑戦。2005年までに全ての借金を返済し、東京赤坂に5階建てのスタジオを建設するまでに至る。なお本人はその件に関し「また新たなローンが出来てしまった」と笑い交りに話している。


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